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198 『統治行為』―苫米地判決

最高裁昭和35年6月8日大法廷判決
(民集14巻7号1206頁、判時225号6頁)


平成10年5月20日 U 

<事実の概要>

 昭和27年8月28日の衆議院解散に関し、当時議員であった苫米地義三(ぎぞう)氏は、右解散の違憲無効を主張し、議員たる資格の確認を求めるとともに、任期満了までの歳費を請求する訴訟を提起した。その理由としては、@衆議院の解散は、憲法69条の場合に限られるのにもかかわらず、右解散が憲法7条にのみ依拠して行われた、A7条解散には、内閣の助言と承認とが必要であるにもかかわらず、右解散の場合それが適法になされなかった、というものである。
 これに対して、被告の国側は、解散は高度の政治性をもつ統治行為であり、裁判所の司法判断になじまないこと、仮に司法判断に服するとしても本件解散は適法であったこと、等を主張した。


<下級審>

 第一審判決は、国側のいう統治行為論を避け。原告の請求を認容した。

 第二審判決は、統治行為論については一審判決と同じ見解を示しながらも、内閣の助言と承認が適法であったことを認めて、被控訴人(原告)の請求を棄却した。


<上告理由>

 第一点は、原判決が本件解散は憲法7条に依拠して行われたもので、憲法に適合するものであるとしたのは衆議院の解散に関する憲法の解釈を誤ったものであるとし、第二、三点は、原判決が本件解散について、内閣の助言と承認が適法になされたと判断した点に対し、採証の法則違背、審理不尽等の違法ありと主張。


<最高裁> 上告を棄却する

 「わが憲法の三権分立の制度の下においても、司法権の行使についておのずからある限度の制約は免れないのであって、あらゆる国家行為が無制限に司法審査の対象となるものと即断すべきでない。直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為のごときはたとえそれが法律上の争訟となり、これに対する有効無効の判断が法律上可能である場合であっても、かかる国家行為は裁判所の審査権の外にあり、その判断は主権者たる国民に対して政治的責任を負うところの政府、国会等の政治部門の判断に委され、最終的には国民の政治判断に委ねられているものと解すべきである。この司法権に対する制約は、結局、三権分立の原理に由来し、当該国家行為の高度の政治性、裁判所の司法機関としての性格、裁判に必然的に随伴する手続上の制約等にかんがみ、特定の明文による規定はないけれども、司法権の憲法上の本質に内在する制約と理解すべきである。」

 「衆議院の解散は、極めて政治性の高い国家統治の基本に関する行為であって、・・・当該衆議院の解散が訴訟の前提問題として主張されている場合においても同様であって、ひとしく裁判所の審査権の外にありといわなければならない。」


<争点>

 統治行為論を認めるか

 解散権行使の根拠と手続 


<学説>

統治行為論否定説

 憲法81条の規定からすると、裁判所の審査しえない特別の国家行為を承認することはできないと主張する。そして、司法権の限界を、包括的な統治行為の概念ではなく、むしろ裁量論や自律権論の問題で説明しようとする。


統治行為論肯定説

 @内在的制約説(入江、雄川、金子)
 統治行為論を、三権分立を前提として、司法権に内在する限界として根拠づける。つまり、高度の政治性を帯びた行為は、政治的に無責任な(国民によって直接選任されていない)裁判所の審査の範囲外にあり、その当否は国会・内閣に委ねられるとする。

 A自制説(山田)
 統治行為に対して司法審査を行うことによる混乱を回避するために裁判所が自制すべきであるとする説。

 B折衷説(芦部)
 内在的制約説に自制説の趣旨を加味して問題を考察しようというものであり、事件に応じて具体的にその論拠を明かにすべきだという機能的立場をとるものである。


<リーディングケースとされる判例>

砂川事件判決(最大判昭和34・12・16刑集13巻13号3225頁)

長沼事件判決(札幌高裁昭和51・8・5行集27巻8号1175頁)

百里基地訴訟水戸地裁判決(昭和52・2・17判時842号22頁)


<私見>

 国民によって直接選任されていない裁判官が、政治的な問題を司法審査するのは民主性の理論に反すると思われる。権力分立の原理で考えても、法律問題については裁判所の判断に委ねるのと同時に、政治問題については政治部門の判断に委ねるべきである。したがって統治行為は認められるべきである。
 しかし統治行為を認めるにしても、明文規定のないことから考えれば、司法権における例外ということも考えに入れるべきであって、これを用いるにあたっては、範囲はできるだけ厳密に限定すべきである。つまり、他の理論で説明がつくのであるならそれに拠るべきであり、もしも統治行為の観念を不当に拡大すれば、それは裁判所が自ら権利を放棄するに等しい。

 本判決における衆議院の解散は、高度な政治的判断であるから、統治行為論を適用する余地は十分あるといえる。しかし、裁量論や自律権論での処理も可能であったと思えるので統治行為論を用いる必要はなかったと考える。


2004.7.16 upload / 8.1 update

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