T―24 『車内広告放送と「とらわれの聴衆」』
最高裁昭和63年12月20日第3小法廷判決
(昭和58年(オ)第1022号商業宣伝放送差止等請求事件)
(判時1302号94頁、判タ687号74頁)
平成12年9月27日(水) Y
【事実の概要】
被告(大阪市交通局)は、その経営する大阪市営高速鉄道(地下鉄)の赤字解消のため、列車内において業務放送と合わせて商業宣伝放送を実施するにいたったところ、同地下鉄を通勤のために利用していた原告は、被告に対し右商業宣伝放送が乗客に聞きたくない音の聴取を強制する点においてその人格権を侵害し、また旅客運送契約に基づく快適輸送業務に違背する旨主張し、右放送の差止めと放送を中止するまでの損害賠償を求めた事案である。
第一審大阪地裁昭和56年4月22日判決、控訴審大阪高裁昭和58年5月31日判決、いずれも原告の請求を棄却。その理由は1審2審ほぼ同一である。
「我々は法律の規定を待つまでもなく、日常生活において、見たくない物を見ない、聞きたくない音を聞かないといった類の自由を本来有している」が、この自由は絶対不可侵のものではなく、違法性の有無は「本件放送のなされるに至った事情、その態様、そのもたらす結果などを総合的に勘案」して決定されなければならないとした上で、運行の安全性確保のための、車内放送自動化費用の捻出という目的、1回5秒程度の企業名称会という態様(52年1月以降)、一般乗客の嫌悪感の程度から判断して、本件放送を違法と判断できない。
原告はこれを不服として上告した。
【最高裁判旨】
上告棄却
「原審が適法に確定した事実関係のもとにおいて、被告の運行する大阪市営高速鉄道(地下鉄)の列車内における本件商業宣伝放送を違法ということはできず、被告が不法行為及び債務不履行の責任を負わないとした原審の判断は、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。
【伊藤正己裁判官補足意見】
聞きたくない音を聞かされることは、心の静穏の侵害、すなわち広い意味でのプライバシーの侵害となりうる。この自己の欲しない刺激によって心の静穏を害されない権利は、憲法13条の幸福追求権に「含まれると解することもできないものではない」が、違法性の判断は、侵害行為の態様との相関関係においてなされなければならない。通常公共の場所ではプライバシーの権利は強い制約を受ける。しかし、車内放送は必然的に耳に入るので、この場合乗客はいわゆる「とらわれの聞き手」である。このことは、乗客のプライバシーが交通機関側の経済的自由の行使に直ちに優越する事を意味するものではないが、両者を調整する上で「考慮される一つの要素となる」。「以上のような観点に立って本件を見てみると・・・上告人が・・・『とらわれの聞き手』であること、さらに本件地下鉄が地方公営企業であることを考慮に入れるとしても、なお上告人にとって受忍の範囲をこえたプライバシーの侵害であるということはでき」ない。
【参考判例】
公益企業委員会対ポラック事件(Public Utilities Commisson v. Pollak, 343 U.S. 451(1952))
連邦最高裁は、首都圏交通会社の運行する市街電車・バスの車内等におけるラジオ放送(その90%が音楽、5%がニュース等、5%が商業広告で商業広告は1回に15〜30秒)の合憲性が問題となった事件において、通常の会話を妨害しておらず、また不快なプロパガンダ(特に特定の思想・主義の宣伝)を含んでいない場合、表現の自由に反しておらず、また家庭外におけるプライバシーの権利は、家庭内でのそれと同等ではなく、他者の権利との関係で合理的な制約に服するとの判決を下した。(但しダグラス判事はこれに対して、プライバシーの権利は、競合する娯楽、競合する宣伝、競合する政治思想から探し選択する権利を含むべきであるとの意見を述べている。)
小田急事件(東京高裁判決 昭和57年12月21日、最高裁第1小法廷判決 昭和63年12月15日〔判例集未登載〕)
小田急電鉄株式会社及び帝都高速度交通営団を被告として、乗客が車内等の商業宣伝放送の差止と損害賠償を求め請求棄却となった事件。
聞きたくないものを一方的強制的に聞かされない自由は一種の人格権と解されるが、他の自由との衝突が生ずる場合には、その調整上制約を免れず、社会生活上受忍するのが相当と認められる範囲においては、人格権侵害の事実があっても違法性は認められないとした。
【私見】
「聞かない自由」を憲法上の権利として承認すべきか。承認されうるとするならばいかなる条項にその根拠を求めることができるのか、最高裁判決ははっきりと述べてはいないが、憲法上の権利として承認されうるとしても、公共の場においては制約を受けるというのが本件の判断である。しかし音に対する感覚は個人の主観によるものであり、いわゆる「社会人の一般的な通念」をもって判断できる問題であるか疑問が残る。