第三章 上訴制限に関わる権利・制度の検討
第一節 裁判を受ける権利
上告制限を考える際、一つの視点として憲法で保障されている裁判を受ける権利を考慮しなければならない。裁判を受ける権利の内容をいかに捉えるかによって上告制限が裁判を受ける権利と抵触する可能性が生じてくるからである。
では、裁判を受ける権利はいったいなにを意味しているのであろうか。判例・学説はこの裁判を受ける権利をどのように理解してきたのであろうか。
(1)裁判を受ける権利の意義
一般的に裁判を受ける権利は、政治権力から独立の公平な司法機関に対して、すべての個人が平等に権利、自由の救済を求め、かつそういう公平な裁判所以外の機関から裁判されることのない権利をいう(註1)。では、このような裁判を受ける権利にはどのような意義があるであろうか。我が国の憲法では裁判所の違憲立法審査権を通じて司法的に基本的人権の保障を確保されているため、裁判を受ける権利は、「法の支配」を実現するための不可欠の手段としての意義を有する。その意味より、この権利は請願権とならんで国務請求権(受益権)の一つに数えられていた(註2)。さらに、これに参政権を含めて(能動的関係における権利)ともされている(註3)。また「法の支配」の原理との機能的な関係に着目し「基本権を確保するための基本権」とも呼ばれている(註4)。
(2)日本国憲法における裁判を受ける権利の沿革
マッカーサー草案では、現行31条の法定手続条項と合わせて、「裁判所に出訴する権利(right of appeal to the courts)」は奪われないと定められていたが、後に「裁判所において裁判を受ける権利(right of access to the courts)」に改められ、憲法改正草案以降は法定手続の保障と区別して規定されることとなった。このように、総司令部側はアメリカ的発想に基づきデュー・プロセスと合わせて裁判所へのアクセス権を保障する考え方をとったのに対し、日本側は二つを区別し、しかも「裁判所において裁判を受ける権利」というなじみやすい表現に改めたのであろう 。
(3)裁判を受ける権利の意味
裁判を受ける権利は、第一に、刑事裁判において被告人が公平な裁判所による公正な公開審理を受ける権利とし、第二には、民事・行政事件において各人が裁判所に訴えを提起する権利と解されている(註6)。このように、裁判を受ける権利は、民事・行政事件と刑事事件において異なった意味内容をもつため、それに応じて裁判を受ける権利の性質も異なると考えられている。一般に刑事事件においては自由権を意味するとされているが。民事・行政事件において裁判を受ける権利は、「何人も自己の権利又は利益が不法に侵害されているとみとめるときに、裁判所に対して、その主張の当否を判断し、その損害の救済に必要な措置をとることを求める権利ーこれを裁判請求権または訴権というーを有することを意味する(註7)。」とされ、受益権ないし国務請求権を意味していると考えられている。以上のように通説は、民事・行政事件における裁判を受ける権利の保障は、裁判所に訴えを提起できることを意味していると考えており、同時に裁判所に対して、適法な訴えの提起があった場合には必ず裁判を行うべき義務を課し、「裁判の拒絶」は許されないことを意味しているととらえている。
これに対し、芦部教授は「政治権力から独立の公平な司法機関に対して、全ての個人が平等に権利・自由の救済を求め、かつ、そのような公平な裁判所以外の機関から裁判されることのない権利である(註8)。」とし従来の理解に、裁判は「公正」であるべきとの主張も加えられている。この見解については、浦部教授も類似の見解を示しており、裁判を受ける権利は「ただ単に裁判を求めることができるといったものにとどまるのではなく、公正な裁判のための、裁判所の構成や訴訟手続きに対する一定の要求を含むものとして捉えなければならない(註9)」と主張する。
(4)民事訴訟法における「訴権」と憲法上の「裁判を受ける権利」
民事訴訟法では「何ゆえに訴えを提起することができるか」という問題を契機として訴権学説が展開された。民事訴訟法上で「裁判を受ける権利」を考える際、この「訴権」をいかに捉えるかということに対する理解が大切であり、この「訴権」と「裁判を受ける権利」の結合について考えなければならない。そこで、ここでは訴権論の中でも、「裁判を受ける権利」と「訴権」との結びつきに重点を置いて「訴権」について検討をしていく。
まず、あげられるのが三ヶ月教授の訴権否定説である。この見解は「裁判を受ける権利」と「訴権」を切り離して考える見解で、次のように述べている。すなわち、「私は、憲法上ないし国法学上の概念としての『裁判を受ける権利』と、在来的な形での『訴権』とは、発想の基盤を異にしており、憲法で裁判を受ける権利を保障しているから、訴訟理論上も『訴権』の内容を一致せしめるように理論を立てねばならぬとかいうものではない、と考える。歴史的・発生的にみても、ドイツでの訴権論は、憲法上の『裁判を受ける権利』概念とは全く無関係に発展してきたのだし、『裁判を受ける権利』の憲法上の保障がドイツの歴史にあっては最大限にひろげられるにいたったボン憲法ができたあとで、訴訟法理論としては、訴権否定論がかえって自覚的に唱えられるにいたるということも、このことを裏書する。訴権を訴訟法理論上認めるべきがどうかは、訴訟法理論にとってそれが有益ないし不可欠であるが、ということから理論家がきめればいいことであって、そうした『訴権』を認めないからといって、憲法上厳として保障されているところの、これとは発生史的にみても別な『裁判を受ける権利』を否定する、ということには決してならないのである。」とし「『裁判を受ける権利』の実体を構想するには、ドイツ訴訟理論のみのもつ訴訟論的粉飾をふり払い、…『慎重な裁判』、『迅速な裁判』『低廉な裁判』という、それ自体相互に緊張しつつ対峙する契機を内在せしめながら、時代の裁判観そのものを反映しつつ、裁判手続の立法的規制を指導する統制概念であると率直にとらえ、在来的訴権論と切りはなすことが、理論的にも妥当であると私は考えるのである(註10)。」。
しかし、最近は「裁判を受ける権利」と「訴権」を結び付けて考える見解も有力になってきた。その一つとして司法行為請求権説があげられる。この説は訴権を、発展的内容をもつ公法上の権利であって、それは司法権の主体である国家に対し、裁判所によって実体法に適合した司法行為をなすべきことを要求する権利であると考える。小島教授はこの訴権論について「国民は、その地位に伴って裁判を受ける権利を保障されているが、同時に、個別事件の内部においても、当事者として司法行為を要求する権利を有するとみるべきである。この権利は、単に法律上必要な審理を求める機能としてでなく、憲法に裏打ちされたデュー・プロセスに従った審理と判断を求める権利として構成されなければならない。つまり、受動的に現行の法律手続による裁判を求めるものではなく、憲法に反する手続を補正し合憲的な裁判を求める創造的な権利として把握されなければならない。憲法を取り込むことで、司法行為請求権は、新しく別個の権利へと変貌するのである。(註11)」と述べている。またこの説を主張する斎藤教授は訴権と裁判を受ける権利との結びつきに関して「訴権の理論的、実際的効用を発揮させるには、憲法と訴訟法を結び付ける概念として訴権を観念し、憲法23条は訴権を保障したものである」とし「訴権の内容に憲法の保障する積極的な受益的性質を盛り込むべきであるが、それには、司法行為請求権説をとる以外にない。(註12)」としている。
次に訴権と裁判を受ける権利を結び付ける説として本案判決請求権説がある。これは、原告には裁判所に対しては訴権をもって自己に有利な判決を求める権利はなく、せいぜい本案判決を求める権利があるにすぎないとする学説である。この学説を唱えている新堂教授は訴権の意味を明確にしつつ裁判を受ける権利との関係やその他の訴権論の批判や賛同について以下のように述べている。「現代ではすでに…訴えの利益などの観念が確立され、どのような条件があれば判決一般、本案判決、または勝訴判決がえられるかについて制度運営上の理論が一応明らかにされている。したがって、そのような制度運営上の規律の反映として裁判を受けられることをことさら個人の権利として構成する実益があるかは、たしかに一つの問題である。その意味で、訴権論は訴訟要件論の中に発展的に解消せしめられたとの訴権否定説の説くところには一面の真理がある。」ただ「訴権なる観念を認めるとしても、斎藤教授のように訴訟法と憲法を結ぶためだけならば、司法行為を要求できる当事者の地位を端的に裁判を受ける権利として観念し、訴訟法学の立場からもその内容を論ずればよく、あえて訴権なる観念を要しない。訴権を、裁判を受ける権利と同義に解し、判決以外の司法行為をも求める権利として一般化してしまうと、訴権の内容は散漫となるし、裁判を受ける権利のほかにそれを認める意義がかえって問われることになろう。そこで、訴権論争における伝統的な使い方を受けて、訴権を判決を求める権利として構成し、裁判を受ける権利の中核として訴権を考えるのが適切であろう。しかも、訴えの利益や当事者適格の判断において制度の利用者の利益や便宜を代弁せしめる点に訴権の実用的意義があるとするならば、訴えの利益や当事者適格を要件として成立する本案判決を求める権利としてこれを構成しておくのが、現在も適当と思われる(註13)。」としている。
第二節 「訴えの利益」と「裁判を受ける権利」
いくら裁判を受ける権利を主張しても、公共のサービス機関である裁判所に対して訴訟を提起する際、訴えの利益がなければそれは権利を主張するに値しないものになってしまう。よってこの節では訴えの利益と裁判を受ける権利について検討してみることにする。
「裁判を受ける権利」は、当事者間の権利義務に関する具体的な紛争、すなわち「法律上の訴訟」について、裁判所の法的判断を求めるものであるから、そうした裁判求めることを必要とする立場にある者(当事者適格)が、法的判断を求めるに適した事件(権利保護の資格)について、実際に判決を求める必要が存在するとき(権利保護の必要)に、はじめて裁判所へ訴訟による救済を求めることの利益(訴えの利益)が認められるのである(註14)。それ故、「法律上の訴訟」(裁判法3条1項)として成立しえない場合、たとえば、具体的な権利保護の利益を欠く場合などには、裁判所が訴えを不適法としてしりぞけても、それは憲法32条違反、つまり「司法拒絶」になるわけではない。このような観点からいえば、最高裁が憲法32条は、訴訟当事者が訴訟の目的たる権利関係について、裁判所の判断を求める「法律上の利益」をもつことを前提として、「裁判を受ける権利」を保障したものであるから、「法律上の利益」のない訴訟についてまで、これを保障したのではないと判示(註15)したことは、訴えの利益と憲法32条との関係について、一応妥当なとらえ方をしているといえよう。
しかし、「法律上の利益」(訴えの利益)という訴訟要件に基く訴えの却下が、「裁判を受ける権利」を侵害する可能性があるという考えも出てきている。この点、藤井教授は以下のように述べている。「『法律上の利益(あるいは、訴えの利益)』にせよ、『処分にせよ』、それらは訴訟要件として全く自明な概念であるというわけではなく、それを解釈する裁判所の姿勢によっては、ある事件についてその要件が充足されていると認めるか否かについての判断が大きく左右されるという面があることも否定できないのである。その意味では、ここにおいても、裁判を受ける権利の侵害という点で全く問題とならないとはいい切れないことに注意すべきである。例えば、近時増加しつつある行政上の計画に取消を求める行政訴訟におけるように、実質的に国民の権利侵害(あるいは、その強い蓋然性)があるにもかかわらず、なお訴訟要件がないとされるような場合などは、特にこの点が考慮されるべきであろう。(註16)」
なお行政事件訴訟法に関してであるが最高裁は地方議会議院の除名処分の取消を求める訴訟の中で、「訴えの利益」の有無について、当初、任期満了によって議員の身分を失っているものは、もはや除名処分を争う「訴えの利益」がないと判示していたが(註17)、しかし、その後、免職処分を受けた公務員が市会議員に立候補して当選した後、免職処分の取消を請求した事件の判決(註18)で、たとえ公務員たる地位を回復する必要がなくなったとしても、違法な免職処分さえなければ、公務員として有するはずであった給料請求権その他の権利・利益につき裁判所に救済を求めることができるのであるから、「訴えの利益」を認めるべきであるとしている。
第三節 審級制度のとらえ方
また上告制限を考える際、上記のような理解だけではなく、訴えを提起した後どのような場合に控訴審・上告審の判断を仰ぐことができるのか、つまり審級制度をどのように捉えるかについて考える必要がある。一般に三審制が基本と考えられているが必ずしも三審制が保障されるとは限らないのではないだろうか。これについて民事訴訟法学者である新堂教授は以下のように述べている。「軽微小額な事件につき他の事件と同じように三審制度を絶対視することは、解決すべき事項の価値とこれに費やす経費労力との均衡からいって合理的でない。また、当事者の救済の観点からいっても、敗訴当事者の不利益だけを強調するのは公平ではなく、勝訴者にとってはその結果の終局的確定が相手方の上訴によって不当に引き延ばされるおそれがある…。(註19)」
(1)判例の立場
これについて、最高裁は、審級制度をどのように定めるかは立法政策の問題であるとしている。そのリーディング・ケースは、日本国憲法施行に伴う刑事訴訟法の応急的措置に関する法律が事実審査を第二審限りとし、事実認定不当や量刑不当を上告理由とすることができなくなったことが、憲法32条違反として争われた事例(註20)である。この事例において、最高裁は、「日本国憲法の施行に伴う刑事訴訟法の応急的措置に関する法律第十三条第二項が刑事訴訟法第四百十二条及至第四百十四条の規定を適用しない旨を定めたのは畢境審級制度の問題として実体上の事実審査は第二審を以て打切り上告審においてはこれをしないことにする趣旨にでたものである。而して憲法は審級制度を如何にすべきかに付ては第八十一条において『最高裁判所は、いっさいの法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である』旨を定めて居る以外何等規定する処がないから此の点以外の審級制度は立法を以て適宜にこれを定むべきものである。」とし、審級制度を立法政策の問題としている。
(2)学説の立場
そして学説も、大体、このように審級制度を立法政策とする立場を認めている。三ヶ月教授は「憲法32条の保障も、審級制度につき法律が憲法81条の範囲内で政策的に定めることを予想している以上そういう制約を内含したものとして裁判を求める権利を保障しているのだから、たまたま審級制度上の考慮から上訴が内容的に制限され(例えば法律問題のみを問題とする上告)、又はできぬ(不服申立禁止)とされることがあっても、その一事のみからは裁判を受ける権利を奪ったことには当然にはならぬのだという趣旨がはいっていると読みとるべきものである。 」といっている。これには芦部教授も賛同している(註22)。
これに対して、石川教授は、「憲法に上訴制度に関する明文の規定を欠いたとしても、裁判を受ける権利の保障および法治国家理念という憲法上の権利および原理から見て、上訴制度、審級制の保障が憲法上の要請として存在するものとして解すべきである。(註23)」。しかし、石川教授も審級制の保障が憲法上の要請として存在するというにとどまり、「審級制の具体的内容の決定は立法政策の問題である(註24)」としており、通説・判例の立場と大きな差異は生じないと思われる。
また、松井教授は「憲法三十二条は、国民が個人的に何らかの事実上の不利益を受けたときに裁判所に裁判を求めることができること、そしてその裁判手続に対してデュー・プロセスが保障されるべきことを要求したものと解すべきものである(註25)。」とし、従来の学説を批判している。これによると、憲法32条は、基本的には審級制度をどのようにするかは国会の立法裁量に属するが、手続が手続的デュー・プロセスの要求である告知と意味ある聴聞を求めており、それがみたされていない場合には憲法32条違反となる。具体的には、最高裁への上告理由に一定の制限を置くことは許されるが、一定の事件について最高裁への上告を一切認めないことまでは許容されず、裁量的であれ、最高裁に審理を求める可能性を一切認めないような制度は、裁判を受ける権利を侵害することになる。この考えは、笹田教授のいう「裁判を受ける権利は、利益の実現の機会の実効的保障をめざすものであり、その実現機会をかたちづくる手続・制度に密接に関わる。(註26)」とする考えに通ずるものがあるように思われる。
第四節 最高裁判所の機能
次に、上訴制度を考える他の視点として裁判所の機能が挙げられる。我が国はドイツのような憲法裁判所をもたず、司法裁判所である最高裁が上告審としての機能とともに違憲立法審査も行っている。このため上告件数は多く、また最高裁判所の裁判官が15人という小人数のため負担も多くなっていた。あまりにも負担が多すぎると最高裁判所としての機能も損なわれていくのではないだろうか。
具体的な上告件数の数字をみてみると(註27)、民事・行政事件の上告件数(註28)は、民事訴訟法が改正される前は、1996年が2926件、1997年が2741件であったのに対し、新民事訴訟法が施行された以降は、1998年が3310件、1999年が3930件となっている。この数字は年々増え続けていた上告件数が減るどころかむしろ増えている傾向を示している。
しかし、上告事件の既済事由の内訳(註29)は、1998年は、判決によるもの71.1%、決定によるもの27.9%、取り下げによるもの0.8%、和解によるもの0.1%であったのに対して、1999年は、判決によるもの12.3%、決定によるもの86.4%、取り下げによるもの1.1%、和解によるもの0.1%となっている。1998年と比較して、判決によるものの割合が大幅に減少し、決定によるものの割合が大幅に増加しているが、これは、新民事訴訟法では、決定による上告棄却が認められるようになった(同法317条2項)ため、既済事件に占める新法適用事件の割合が大幅に増加したためであると思われる。このため、最高裁判所の事実上の負担は、判決が減り、決定が増えたことにより、裁判官の負担は大きく減ったと思われる。このように、裁判官一人一人の負担が減ったことにより、今回の上訴制限の趣旨の一つである「最高裁判所が担っている憲法判断と法令解釈統一」(註30)という機能を十分に発揮することになったであろう。
以前伊藤正巳元最高裁裁判官が述べていた「日本の場合、最高裁に係属する事件は年間四千件に及び、最高裁はその処理に追われるが、その多数は通常の民事刑事の事件であり、憲法上の争点を含まない。とくに実質的な合議の対象になる事件を思い出してみると、もとより憲法問題を含むものもあったが、多くは民事(行政を含む)、刑事の解釈上の難しい論点を提起する事件であった。このような状況のもとでは、小法廷にあっては、最高裁もかつての大審院と同じような通常裁判所の最終審であるという認識を生み、憲法判断は例外的な事案に限られるとして、憲法の裁判所であるという考え方は低くならざるをえない。ともかく、そこでは憲法をまず考えるという態度は生まれにくいことはたしかである。(註31)」という見解に対しても一つの解決を示したものといえるであろう。